豊後街道の一部、『二重峠(フタエノトウゲ)の石畳』の歴史におもわず惹かれた❣

こんにちは、バッテン荒和です。

先日『二重峠の石畳』に行って“豊後街道”の一部を実際に歩いてきましたので、たまには柄にもなくアカデミックに歴史的視点から報告させて頂きますのでお付き合い下さい。

1935年、江戸幕府3代将軍家光は武家諸法度において一年おきに各藩の藩主に対して江戸に勤務することを法令により定め、いわゆる参勤交代の制度を確立させたことは歴史の教科書で学んだ通りです。

例えば熊本から江戸(東京)への参勤交代の場合ですが、ここ肥後国(熊本)→豊後(大分)の鶴崎港までは陸路の移動、その鶴崎港からは先は船で大阪まで。それから再び大阪からは陸路の江戸までが参勤交代の全工程だったそうです。

ところで、この豊後街道(ぶんごかいどう)は江戸時代に加藤清正によって拓かれ、熊本藩や岡藩の参勤交代に用いられたことから、大分側から見ると肥後国に向かう街道であることから、肥後街道(ひごかいどう)とも呼ばれ、さらに豊後往還、肥後往還と呼ばれることもあるそうで肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)と豊後国鶴崎(現在の大分県大分市鶴崎)を結ぶ全長約124キロメートル(31里)の街道であります。

もっと詳しく経路を見てみますと肥後国熊本城の札の辻から、大津、内牧を経て豊後国に入り、白丹、久住、境川、古屋敷、四ツ口、追分、上野、神堤、今市、野津原、木上、八幡田、津守、萩原を経て鶴崎に至るそうであります。

参勤交代のルートは全国津々浦々に藩があったため色々異なっており、そのかかる日数も江戸に近い藩なら1日2日、対して江戸から離れている薩摩藩(鹿児島)や肥後藩(熊本)なら2ヶ月以上かかってたそうです。

さらに蛇足になりますが、この豊後街道にちなんだ史実として文久4年(1864年)に四国艦隊下関砲撃事件調停の幕命を受け、江戸から長崎に下った勝海舟や坂本龍馬等の一行が佐賀関に上陸した後、この豊後街道を通って熊本経由で長崎に向かったそうです。

話を戻し、今回訪れた豊後街道のうち、熊本市から菊池郡大津町に至る部分は大津街道、大津町からこの阿蘇市二重峠に至る部分は清正公道(せいしょこうどう)とも呼ばれていますが、この『二重峠の石畳』の写メをご覧ください。↓

今の休憩所??? 当時のお茶屋さんです↓

⁂是非ここ阿蘇の屋根のない歴史博物館にお越しになりませんか。

皆様方の目で実際に堪能なさっては如何でしょうか❓

 

 

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